2010年12月13日月曜日

水の記憶とかいうものを考えてみる

いい言葉をかけた水と、悪い言葉をかけた水で、凍らせたときの結晶が違う、という話があります。
本も出ているくらいで、いい言葉をかけたほうが綺麗な結晶になるとか。
身近でこのことを聞く機会が多いので、ちょっと考えてみました。

まず、水に記憶とか感情があって、いい言葉を理解して綺麗な結晶になる、という定説は置いときましょう。
言葉の質によって、結晶の具合が異なる、という視点から見てみます。

言葉、というのはどういうものでしょうか。
考古学の世界では、人類が言葉を持ったのは250万年前、と言われています。
石器の作り方に、世代間の伝承がみられるようになったことから、言葉で伝達を行ったのではないか、という話です。
250万年の間、言葉は洗練されていき、感情を伝える言葉も分化して、よい言葉と悪い言葉に明確な定義ができていきます。

そのなかで、言われて嬉しい、いい響きの言葉が「ありがとう(言語・文化により異なります)」になっていき、
「おまえなんか死んでしまえ」という言葉は、受け取る側の気持ちがとっても悪くなる言葉の、響きの進化形、と考えられます。

さて、それらの体に受けて気持ちの良い言葉、という所から、言霊、という発想も出てきまして、
実際に悪い言葉を受けつづけると、欝になったり、不調を起こしたりしますし、いい言葉をたくさんもらうと元気がでてきます。

さて、それらが水とか植物に影響をあたえるのかどうか、はわかりません。
恣意的なサンプリングでどうにでもなることなような気がします。でも結局、いい言葉を言っている方がいいね、という所で、納得することにしました。

「脳髄はものを考えるところにあらず」(ドグラ・マグラ)
というように、脳みそだけでなく、体の細胞が感じることが、人を動かしているのかもしれませんから、
いい言葉がいい影響を与えるのは自分の中で受け入れやすい概念です。

細胞を活性化させる響きが、いい言葉という音階になって言葉として伝わってきているのならば、いい言葉でいい結晶ができるのも理解できるかもしれません。

でも人の言葉にそんなに力があるのかな、という気もしますし、結局よくわかりません。

水の記憶、というより、言葉の階調に何かあるんじゃないか、ということです。

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