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2011年1月21日金曜日

土層のでき方

遺跡を掘っていてふと気になる時があります。
10cm掘って縄文時代の遺物と遺構が出てくる場所と、2m掘って江戸時代の遺物と遺構が出てくる場所。
この違いはどこからきているのだろうか、ということです。

考古学では「地層累重の法則」というのがあって、
言ってしまえば、
「下のほうが古くて上のほうが新しい。土は下から順番に積もる」
というものです。

これがあるから、安心して上から順番に掘れるわけで、厚くても薄くてもこの基本は変わりません(一部例外はありますが)。

で、堆積する土はどこからくるのか。

これは主に河川の氾濫などにより上流から流されてきて積もる土と、
風に乗ってやってくる塵(風成塵)があります。

この土壌生成の働きが活発な河川敷とかであれば厚く積もるし、あんまり活発でない高地などでは薄くなります。

自然に土が積もっていくことでは、長い年月を経て少しずつ積もり、洪水などがあると一気に厚く堆積することになります。

また、人為的に埋め立てる場合もあります。
これによって、場所によって2m掘らないと遺構面に至らないほど厚い層が出来上がっていきます。
こういうのを整地層というのですが、一度に埋めた土でも、地中の環境によって色が変わったり、上部は草の根っこなどで変質してしまいます。この、「同じ時に埋めた同じ土」なのに質が違ってしまって層が分かれて見える、という現象は、掘っている人は注意しないといけません。

写真を載せてみました。別のブログで一度載せたものです。
親戚の家にて、子供遊び用の砂山の断面です。
最初は同じ砂でした。一番下に残っている黄褐色の砂がそれです。
上層は遊んで混ざったり、草が生えたりして土壌化が進んでいます。
中層は水分の沈殿する層で、酸素が少なくなって還元され、暗い色に変色しています。

例えば上層から掘りこまれた遺構でも、平面的にはっきり見えるのは3番目の層になってから、というのがよくあります。上の方は土が混ざっているのではっきりわからなかったりします。

2011年1月11日火曜日

受けるべきか受けざるべきか・・・「考古検定」

目指せ100万人の考古学(考古検定のページ)

2月から、「考古検定」なるものが始まるそうです。
入門クラスから最上級までの5段階があるようで、上級(大卒レベル)と最上級(大学院レベル)は2012年から始るとのこと。

なかなか面白そうですけど、やっぱり専門職としてやっている以上は最上級取っておかないとまずいのかなあ、と思ってしまします。
大学院レベル、というのがどんなものか分かりませんが、院では専門に特化した研究を行いますので、こういう検定では、問題にはまらない限り院卒でもクリアは難しいでしょう。

問題は、入門編の例題が公開されており、卑弥呼の吉野ヶ里遺跡はどこにあるか、三内丸山遺跡は何時代の集落か、といった、ちょっと遺跡に興味のある人ならまず間違いなく答えられるものになっています。

大学院レベルの問題となると、どういうものが出るのでしょうか。水中考古学の現状と課題について2000字以内で小論文を書くとか、三内丸山遺跡の年代を述べた上でその指標となった出土遺物の形式と出土状況から見た信ぴょう性とか、集落規模を復元するに当たって参考となる民族事例を述べよとか、石器の散布状態から遺構の性格付けを書くとか、とかになるんでしょうか。PEG真空凍結乾燥と糖アルコール含浸保存処理法のメリット・デメリットを述べよなどは、中級から上級の問題として予想されます。

入門だけインターネットで検定を受けられるようです。

2011年1月5日水曜日

メディアにかかれた考古学者

考古学というとだいぶ知名度が高く、けっこう知られている言葉だと思います。
ですが、その実態はというと、だいぶ違った形でかかれることが多いようです。

まず、インディー・ジョーンズ。
考古学者のイメージというと、やはりコレでしょう。古代遺跡を冒険して悪党と戦っちゃいます!
でも、実際の考古学者でインディー・ジョーンズと同じ経験をしている人は、私は知りません。
沖縄のジャングルで、ハブが出てこないようにと現地の研究者の方に追い払い方を教えてもらって森を抜けたときくらいしか、冒険らしき経験はしていません。

あと現場で出てきた蛇を捕まえて逃がすとか、スズメバチの巣を夜中に駆除するとか、盗掘者の見回りにいったこととか、まあ大体、人生でみんな経験することでしょう。

となりのトトロのサツキとメイのお父さん。彼も考古学者です。32歳ということでした。糸井重里さんが声をやっているそうです。
彼は考古学者の正確なイメージを表現しています。非常勤講師をしていて翻訳の仕事もして生活費をかせぐ、という辺りも忠実であると思います。

最近「ラブひな」を読みましたが、主人公の男の子は最終的に考古学者になりました。
まあ漫画なんでいいんですけど、インディー・ジョーンズのイメージに近いです。

「高校デビュー」の小宮山ヨウは、最終的に恐竜の仕事を目指して大学に行きました。恐竜の仕事は「古生物学」で「考古学」ではないのですが、話の中で「史学なんだけど理系との連携もある」という発言があって、もしかしたら考古学と誤認しているのかも?と思いました。

「遺跡の発掘の仕事をしている」というと、よく「恐竜はでるかい?」と聞かれることが多々あります。
恐竜の発掘は「古生物学」
遺跡の発掘は「考古学」です。
最近は言い直すの元気もなく、「まあ出ないですねー」と流してしまいます。

恐竜の化石とかアンモナイトとかが出てくる古生物学は、れっきとした生物学で、理系です。史学ではなく、対象とする時代も億年単位の古い時代です。
考古学は人類の歴史を対象にしているのでせいぜい100万年単位の事柄を調べます。ちなみに史学といった場合は、文字資料が出てくる数千年単位の時代に限られ、それ以前の猿人、原人、旧人と新人の大部分の時代は「人類学」になってこれも史学ではありません。

で、人類学的考古学(先史学)と、歴史考古学という風に分けられます。分け方は色々ありますのでWikipediaの考古学を参照してください。普通「Archaeology」というと先史学のことになります。

で、これから考古学者を目指す若者へ。
・トリケラトプスやティラノサウルスが掘りたければ、古生物学へ行きましょう。ただしアカンバロ土偶は人の手が加わっているものなので考古学です(贋作でなければ)。
・スリルを味わいたければ探検家になりましょう。
・化学分析、民俗学(フォークロア)、民族学(エスノグラフィー)、地質学、地理学、文献史学など関連分野が沢山あります。逆にそちら側からのアプローチもありますので、考古学専攻でなくても考古学をやることは可能です。







2010年12月24日金曜日

スマートフォンでできる遺跡発掘の効率化

などを日々、考えています。
実際iPhone、Androidを使っていますと、最初は面白いし、出来ることが沢山あって色々試してみるのですが、結局のところどうしたら一番いいのか、で行き詰ってしまします。

iPadなどでのプロモーションとか、常時ネットワークにつながっている端末の特性を生かしたデータベース構築とか、発掘後の活かし方、というのも様々ありますが、現場で運用するにはどういったものがあるのでしょうか。

実際自分が遺跡に出ていたときに使ったやり方といえば、
・写真をとって、遺構番号をメモする。
・そのメモをEvernoteなりに送って、測量士さんに渡す。
・土層のメモを録音する。
ぐらいしかありませんでした。

あとは会社のメールを現場内でチェックしたり、意味もなく定点観測してみたり。
やはり、個人レベルで取り入れても、たかが知れている、というのが今の感想です。

主任なり総括担当が、現場での動きをリアルタイムに知ることとか、知識ネットワークに繋がっている状態にして、出てきた遺物・遺構を即座に質問できるようにするとか、端末なりの活かし方、つまりは最先端で収集した情報を、背後のバックヤードに即座に引き渡すことができれば、遺跡の調査精度・速度をレベルアップできるのではないか。
なので、調査員・調査補助員に端末を持ってもらい、ライブ中継をしてもらう。ライブ中継となると、やはりスマートフォンが便利。
これを主任調査員が複数同時確認して、適切な指示を送る。という形になれば、かなり効率がよくなるのではないかと考えています。
主任でなくてもよくて、顧問なり大学の研究者に協力してもらうのもいいかもしれません。

・調査区の周りに無線LANのアクセスポイントをおいちゃう。
・ライブ中継しちゃう。で、録画する。
・写真はEvernoteで撮る。

というのを試してみたい!

が、現状ではスマートフォンは個人的に持っている人が数人、会社で導入する気配なし、会社的に無線LANはダメ、という壁があります。
やっぱり現場だと雨にも濡れるし、壊した水道管の水の中に電話を落としたりするので端末は会社支給が望ましいですね。

2010年12月21日火曜日

与那国海底遺跡

前々から気になっていた与那国海底遺跡についてちょっと考えてみました。
なんとなく、グスク時代の城が、地殻変動などで沈んだのかな、と思っていましたが、調べてみるとどうもそうでもないみたいですね。

少なくとも遺物がない時点で、祭祀にしろ居城にしろ、沈没した遺跡と考えるのは難しいのかな、というのが結論です。
考古学では特に自然物と人工物の見極めをしないといけないことが多くあります。

自然に割れて石器みたいに見える物、
根っこの跡に鉄分が沈着して固まって釘みたいに見える物、または根っこの跡が柱穴に見えるとき、
地中のカビが模様みたいに見えるとき、
大昔の河川の流れで動いてできた、石列みたいに見えるところ、
調査区の壁から落ちてきた、上層のガラス片などを誤って踏んでしまい、雨の日の後などに遺物として取り上げてしまいそうになるとき、
地中の酸素濃度によって土が灰色になったりした範囲が、人がほった物と誤認しそうになるとき、
硯に自然についた傷が文字みたいに見えるとき、

細かいことが沢山ありますが、そういったエラーをなくすところから、遺跡調査が始まります。
疑わしいところを排除して、確定できるところで勝負するのが大事です。

で、考古学的な立場からすると、やはり与那国海底遺跡なるものは、与那国島海底地形となるわけで、
でも別に遺跡ではないと言い切れるわけでもなく、今後遺物の発見があったり、石に加工の跡が見つかったりすればまた考えを改めるわけで。

新しい結果が出たらそこから仮説をたて、その積み重ねで、一番もっともらしい結果を導くのが科学的なんじゃないかなと考えました。



与那国海底地形 - Wikipedia




2009年12月1日火曜日

薬師堂現地説明会のお知らせ

12月5日、若林区木ノ下で遺跡の説明会があります。

江戸時代のお墓、平安時代の遺構が見つかっており、五鈷杵、鏡などが展示されます。

12月5日 10時から


2009年8月11日火曜日

封内土産考「案内の湯豆腐」


案内は、今の東仙台付近です。案内公園という地名で今も残っています。封内土産考に出てくる「案内の湯豆腐」ですが、「宮城郡小田原村案内(東仙台)で茶屋を営む卯兵衛が製造し、7代藩主伊達重村が「名物」の号を与えた」とあります。また、橘南谿(たちばななんけい)の「東西遊記」にも紹介されております。橘南谿は(1753-1805)は、江戸時代後期の医者で、橘が仙台に来たのは天明5年(1785)から翌年にかけてのことで、東西遊記は寛政7年(1795)の刊行です。

参考文献:仙台市史通史編5近世3

2009年6月17日水曜日

古城

先日、宮城刑務所の矯正展に行ってきました。
今回は、宮城刑務所のある、「古城」という場所について書いてみたいと思います。

まず、宮城刑務所のあらましと、「矯正展」について。
宮城刑務所は1879年に古城の地に立てられた「宮城集治監」が前身となっており、西南戦争の捕縛者を収容したものとのことです(Wikipediaより)。
また、矯正展とは、服役者の刑務作業による製品を売りに出すもので、刑務作業というものは「懲役刑の内容であるとともに,受刑者の矯正及び社会復帰を図るための重要な処遇方策の一つ」とのことです(矯正局のページより)。
矯正展では味噌などの食品から塗り物、焼き物、履物、家具、金属細工、皮細工、紙細工、そのた諸々の製品が売りにだされます。かなり質も高く、安く買うことができます。また、すずめ踊り、よさこい踊り、ジャズなど仙台名物といえる出し物も楽しいイベントになっています。

そして、古城という土地ですが、その名の通り、古く城があった場所です。その城というのが「若林城」です。
若林城は寛政4年、1627年に伊達政宗によって建てられ始めました。が、政宗が亡くなり、その後2年ばかりたって寛永15年(1638)には政宗の遺言により取り壊されてしまいます。その後も絵図などを見ると「古城」と書かれて範囲が継続しますので、他の人間が使うこともなく代々伊達家によって受け継がれた土地と思われます。
政宗の隠居の地として、また高い完成度を持つ近世城郭として評価されています。

刑務所の建て替えに伴って発掘調査が行われており、御殿や台所が見つかっています。これらの一部は、11月23日に予定されている発掘現場の見学会で見ることができるようですが、なにせ刑務所内ということで、参加は抽選になるそうです。

参考文献→仙台市の遺跡
http://www.city.sendai.jp/kyouiku/bunkazai/iseki/00000010.html

矯正展の時意外はあまり用事はないのですが、刑務所の東側では堀のあとがみれますし、春には桜が咲き乱れ、古城というだけあって趣のある地です。

封内土産考⑤ 金山紬

封内土産考に出てくる「金山紬」についての話題です。

紬というのは絹織物より下のランクの織物として位置付けられますが、ざっくりとした風合から人気もありそれなりに高価です。綿または、絹織物に使えない太い絹糸を使います。全国に産地があり、大島紬、結城紬、琉球紬、米沢紬などが有名ですね。
とても丈夫なので、正装ではなく普段着の着物として使われます。

金山紬は宮城県の丸森で作られました。水のきれいな丸森は、今も織物の名産地です。
金山紬の名前は残っていないか、少なくなっているようで調べきれなかったのですが、その伝統は今も受け継がれているようです。

遠見塚古墳

仙台の桜の名所は西公園、榴ヶ岡公園などがあり、市外では一目千本桜の柴田
町、船岡城址公園ほかたくさんありますが、今回は遠見塚古墳の紹介をしたいと思います。

遠見塚古墳は宮城県第2位の大きさを誇る前方後円墳で、長さ110mあります。
有名な仁徳天皇陵(大山古墳)が486mですから一瞬小さく思えますが、東北地方としてはかなり大きな古墳です。

前方後円墳というのはその形の古墳をつくること=中央の権力下にあることをほぼ示しています。門外漢なので詳しくは分かりませんが、古墳の形=葬儀のスタイル、つまり「文化」を表しているものだと思います。

石名坂

仙台七崎の話がでたので、次は「仙台七坂」の話。
仙台七坂とは、→ 石名坂(いしなざか)、大坂(おおさか)、扇坂(おおぎざか)、元貞坂(げんていざか)、新坂(にいざか)、藤ヶ坂(ふじがさか)、茂市ヶ坂(もいちがさか)のことを言います。

その中で一番にあがっている石名坂。以前書いた「石橋屋」のそばにある坂で、市急患センターがあります。

なぜ石名坂かといいますと、この地で生まれ育った石名という名前の女性に由来しています。絶世の美女だったらしく江戸で遊女となり、吉原で売れっ子ナンバーワンになったそうです。

この地に円福寺という寺があります。ここに石名が亡くなった追善供養として大般若経600巻が収められているといいます。

仙台はもともと遊びの少ない土地だったらしく、劇場や遊郭ができてくるのは近代に入ってかららしいです。伊達氏の政治方針もありますが、土地柄なのでしょうか。今は国分町がありますが。

仙台城

仙台城は別名青葉城とも呼ばれます。
青葉山にあるからですが、青葉山は「仙台七崎」の一つ、青葉ヶ崎に由来します。
仙台七崎とは→

青葉ヶ崎(あおばがさき)、鴉崎(からすざき)、鹿島崎(かしまざき)、藤ヶ崎(ふじがさき)、玉田崎(たまたさき)、松ヶ崎(まつがさき)、茂ヶ崎(もがさき)を言います。

仙台城はご存じ伊達政宗が1601年に築城を開始し、大広間の完成する1610年までにほぼ全域が整備されました。仙台城に天守閣はなく、大広間という、天皇を迎え入れる「御成門」などがつく建物が本丸の心臓部といえます。天守閣は家康に遠慮してつくらなかったそうです。ちなみに仙台藩に天皇がくることはなく、御成門は260年余の間使われることはなかったそうです。

仙台城のあったところはもともとこの地を治めていた国分氏の居城があり、千体仏があったことから千体城と呼ばれ、後に千代城となりました。それを政宗が仙台と改称するわけですが、その由来となったものが漢詩、「同題仙遊観」の中の「仙台初見五城楼」といわれています。


ちなみに国道4号線バイパスの、広瀬側を渡る橋を「千代大橋」と呼んでいます。

本丸は明治時代に入り東北鎮台、後に仙台鎮台が置かれ、その後は陸軍第二師団が駐屯しました。現在は護国神社が鎮座しており、その他に青葉城資料展示館が建てられ、仙台城の復元CGや模型、武具甲冑、威信財などを見ることができます。

二の丸は二代藩主忠宗により1638年に造営されました。本丸は山の上にあるので(見晴らしは良いですが)藩政の中心として使うには不便なところであったので、その後仙台藩の中心となるところです。第二師団のとき司令部が置かれたのも二の丸です。現在は東北大学が建っています。本丸が登るのがきつかったがゆえに、政宗は隠居後は平城である若林城に移ってしまい、本丸は機能を失っていきます。

三の丸は仙台藩の米蔵があった場所で、いつ三の丸になったかよくわかっていないようです。正保2~3年(1645~1646)の絵図では「屋敷」となっており、そのころはまだ三の丸ではないようですが、寛文4年(1664)の絵図では御三之丸と書かれています。現在は仙台市博物館が建っています。

封内土産考④ 埋木灰

封内土産考~埋木灰(うもれぎばい)

埋木灰は地下の亜炭層の含まれていた埋木を焼いて香炉の灰に用いました。香道では最高級の灰とされています。もともと亜炭層に含まれている埋木は炭化しているので、きめ細かい灰がつくれるのでしょう。亜炭層は仙台では青葉山段丘にあり、現状では沢の絶壁に露頭しているようです。層の年代は数百万年前に相当します。

この埋木は採るのは非常に難しく危険ですが、これより古い年代の埋木が、広瀬側の大橋のところで見ることができます。こちらは凝灰岩層に入っています。凝灰岩は昔の溶岩が堆積したものなので、溶岩の熱で蒸されて炭化した木が埋木です。

江戸時代、お金のない武士はこの埋木を家財道具(お盆やたばこ盆など)に細工して小遣い稼ぎをしていました。これが埋木細工で、壊れやすく細工しにくい埋木を器用に手を入れて見事な工芸品にしています。

今に生きる名人!→

近場で一番埋木を見やすい場所といえば「地底の森ミュージアム」です。ここは2万年前の埋没林が発見され有名になったところですが、ここで発掘された樹木が埋木です。今は樹脂含浸され焼いても奇麗な灰にはなりませんが、旧石器時代の林はそれは見事なものです。

地底の森ミュージアム→

榴ヶ岡公園~仙台市歴史民俗資料館

榴ヶ岡公園は、以前書きました「西公園」に対して、「東公園」と呼ばれた公園です。どちらも桜の名所として有名で、春には花見客でにぎわいます。西公園はソメイヨシノ、榴ヶ岡公園は枝垂桜が並んでおります。

花見でにぎわうのは昔からの風景で、江戸時代の風景画にも描かれています。

近代に入り、仙台城に仙台鎮台ができ、その後陸軍第二師団が駐留するようになると、榴ヶ岡公園も歩兵第四連隊の敷地となりました。
現在仙台市歴史民俗資料館となっている建物は、歩兵第四連隊の兵舎で、戦前の陸軍施設で珍しく残っているものの一つで、県内では最古の木造洋風建築です。古民具、昭和の暮らし、第二次世界大戦の資料などが展示してあります。

封内土産考③ ホヤ

封内土産考に「海苦凡」と出てくるホヤは三陸の珍味です。
海苦凡のほか、「老海鼠」「富也」「保夜」とも呼ばれました。

なぜ「ホヤ」かというと、古い言葉で寄生することを「ほや」という、形が「火屋(ほや。ランプシェード)」に似ているなどの説があります。

宮城県では牡鹿半島で採れる三陸のホヤが有名です。
また、ちょっと前にニュースになりましたが、韓国でホヤが人気で大量に輸出しているようです。

ホヤは独特の臭みがありますが、身を取り出した後水で洗わずホヤの汁で洗うと臭みが減るようです。
また、このわたと共に塩辛にした「莫久来(ばくらい)」というものがありますが、絶品です。非常においしいので私の大好物です。

ただし、好きな人は好きですが、ダメな人はとことんダメです…

仙台箪笥

宮城県の指定伝統工芸品である仙台箪笥。
幕末から明治時代はじめのころその素地ができあがり、明治末から大正はじめのころには生産量が急増して「仙台箪笥」という呼称が使われ始めたといいます。

材料:ケヤキや栗、内側は杉や桐
大きさ:間口約4尺、高さ約3尺、奥行き1~3尺
塗り:透明、下の木目が見える(木地呂塗り)
意匠:全面に打ち出しの鉄金具が沢山付く

これが仙台箪笥の原型で、現在は生活スタイルに合わせてさまざまなデザインのものがつくられています。

仙台箪笥でごはんが食べられるところがあります。
仙台市指定文化財になっている「鐘景閣」。

もともと一本杉にあり、鐘景閣に住んでいたのは伊達伯爵家。鐘景閣は明治に入ってから家臣の佐々木氏の下屋敷を買収し、15代当主、伊達邦宗氏が建て直したものです。宮城県を代表する一級建築士の山添喜三郎の手によるもので、明治36年に起工、明治38年に棟上げされました。

その後、紆余曲折あって昭和56年の解体の際に、現在地の茂庭に移築されました。

5000円で箪笥料理が堪能できます。


仙台箪笥伝承館、門間箪笥店

茂庭荘、鐘景閣

西公園

東公園(榴ヶ岡公園)と西公園(桜ヶ岡公園)。
この2つの公園は仙台を代表する公園です。どちらも桜の名所として有名です。桜ヶ岡公園は1875年(明治8年)開園。東公園は「榴ヶ岡公園」として定着し、西公園はそのまま「西公園」として定着しました。桜ヶ岡公園という名前は桜岡大明神の社が鎮座していることに由来します。

西公園は江戸時代には武家屋敷があった場所です。様々な士族がすまわさっていましたが、江戸初期には片倉小十郎の名前も出てくる由緒ある土地です(寛文の絵図1664年に出てきます)。

片倉小十郎というのは仙台藩の家老として白石城主を務めた片倉家当主の通称です。寛文の絵図に出てくるのは三代片倉小十郎景長の時代にあたります。片倉景長は伊達騒動の際に伊達家側について藩内の混乱を収め伊達氏を改易から救ったとしてこの後家臣内外とも重んじられる家柄です。寛文の絵図の時はまだ伊達騒動の前なので原田甲斐などの反伊達藩側の人間の名前も見られます。その後の絵図では大橋を渡った二の丸近くに片倉家が移っているので身分もあがったのでしょう。

また、本来道路を挟んで南側だけだった西公園ですが、戦後北側まで拡張されました。本来北側は別の名前にするつもりで計画されたのですが、公募の結果「西公園」が得票数が多かったため西公園の一部となりました。本来の西公園(南側)は江戸時代の武家屋敷から明治時代に入って博物館、把翠館、その後、市に払い下げられ洋館が増設され公会堂として、同時期に北側には階行社(将校クラブ)がありました。

公会堂は昭和30年代に仙台市天文台に、階行社は仙台市図書館となりました。天文台は今回の地下鉄東西線の路線にあたるため移転となる予定です。仙台市図書館はメディアテークに移りました。

北側にはC60蒸気機関車が展示され、中に入れます。南側には明治時代から続く源吾茶屋があり、そば、ずんだもち他甘味などが堪能できます。地下鉄の駅ができることもあり、大町交番裏の大銀杏も移植になりますし、これから景色が変わっていくことでしょう。古きよきものには残っていて欲しいと思うのですが。

仙台の有名力士

仙台の有名力士と言えば「谷風」。9年間無敗を誇った名横綱です。本名は金子与四郎。
1750年(寛延3年)に仙台市若林区霞目に生まれ、1769年(明和6年)に初土俵を踏みます。1789年(寛政元年)に小野川喜三郎とともに横綱にあがりました。勝率9割を超え、63連勝という記録を150年にわたり持ち続けた強豪です。
谷風は4代横綱ですが、横綱制度は谷風の時から定着したらしく、谷風は実質的な横綱第一号ということになります。
ちなみに初代谷風は本名鈴木善十郎、9年間無敗だったそうです。

封内土産考②斎川の孫太郎虫

封内土産考に載っている項目で、最初?な名前が載っていました。
それが斎川の孫太郎虫。
孫太郎虫というのはヘビトンボのことで、疳の虫の薬になるそうです。斎川というのは白石の斎川地区のことです。ヘビトンボというのは水の綺麗なところにしか見られず、水質の指標生物のひとつとされています。

分布は北海道から九州まで。体長3.5cm~4.5cm程度。時期は6月から9月。噛みます。
アミメカゲロウ目に属するというのでカゲロウの仲間です。幼虫は川ムカデとも言われ、肉食で周りの虫たちを食べつくしてしまうそうです。

なぜ孫太郎虫というのかまでは調べきれませんでしたが、子供の疳に効くので孫太郎と呼ばれたのでしょうか。孫のためにおじいさんが採ってきていたのでしょうか。
因みに疳というのは小児神経症の一種と考えられていて、癇癪を起こして騒いだり暴れたり泣いたりするといいます。夜鳴きもこの一種とか。原因はストレスの他、消化器不調からくる全身の失調状態などがあげられます。鼻の付け根の皮膚に静脈が透けて見え、これがはっきり見えるほど癲癇の症状が強いらしいです。
また、その他疳の虫に効くものとしては、鍼治療、宇津救命丸、虫退治のおまじないなど色々あるそうです。

封内土産考① 宮城野鈴虫

江戸時代の書物に『封内土産考(ほうないどさんこう)』というものがあります。
1798年(寛政10年)に、里見藤右衛門という人が記したもので、宮城県の特産物が紹介されています。

その中からひとつずつピックアップして紹介してみたいと思います。まず1回目は「スズムシ」です。

封内土産考には122の物品が紹介されていますが、その中に『宮城野鈴虫』というものがあります。
仙台市の「虫」は「スズムシ」です。それほどまでに仙台を代表する虫であります。
鈴虫はHomoeogryllus japonicusという学名を持っていて、japonicusとあるように純日本産だそうです。

余談ですが、佐賀県を中心にした北九州の一部に生息するカチガラスという鳥がいるのですが、(カラスといってもスズメ科の鳥だそうですが)学名がピカピカジャポニカといって、八木山動物園で見ることができます。とてもかわいくて、カチカチ鳴くから「勝つ」とかけて、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に日本に持ち込まれたらしいです。


1.スズムシは飛ぶことが出来ません。後ろ羽が退化しているためです。
2.メスは鳴きません。メスを惹くためにオスが鳴くのでしょうけれども、メスはそのオスを食べてしまうことがあるようです。子孫を残すのはいつも命がけです。
3.また、泣き声は周波数が高すぎて電話では聞こえないといいます。


平安貴族達はカゴに入れて泣き声を楽しんでいました。源氏物語にも「鈴虫」という話が出てきます。この中で源氏は捕まえた鈴虫を秋の風情に作り変えた庭に放したとありますので、そのような事も行われていたのでしょう。
江戸時代に入ってから庶民の間でも虫を飼うことが始まりました。
「虫売り」も現れて、都市ではかごに入れられた虫が売られます。鈴虫は中でも代表格だったのではないでしょうか。

宮城野鈴虫はその鳴き声の美しさで有名になったのでしょう。宮城野原では鈴虫の大合唱が聞けたことでしょう。
今は高森山、枡江の森、鶴ヶ谷中央公園でよく聞けるそうです。

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