2013年12月17日火曜日

因みに

古代の、とは書いたものの、先ほどの文では昔の、という程度の意味合いで使ってみた。古代は奈良平安を指す。

旧石器、縄文、弥生、古墳、古代、中世、近世、近代、現代の大区分で概ね判別する。

掘っていて、だいたいこの区分くらいはわかるようになったけれども、細分できるのは、青磁と肥前磁器くらいだったりする。

古代の人と同じ土の上に

というのは、遺跡ではあまりない。
発掘で見つかる痕跡は、穴の形がはっきり見えるところまで削ってしまうので、本来の表土面とは違っていることが多い。
検出面(大概の現地説明会などではこの面上を歩くことになる)は古代の人ですら歩いていない土の上である。
元々の表土は土壌化しているから遺構は見えにくいのだ。

そんな中でも、古代の人が歩いたかもしれない所はある。竪穴住居の床面、石畳などの化粧が施されている箇所、整地面などなど。

昔は遺跡の土の上に立っただけでもロマンを感じたものだが、ロマンの感じ所がわかってきたような気がする今も、わりかし新鮮で楽しい。

2013年12月15日日曜日

間違ってこそ人間

ガラケーからスマホに移行して、なんだか分からない症状に悩まされている事例をよく聞く。

多機能、高性能化して、それだけ複雑な処理を行うわけで、エラーも増える。自分のiPhoneも時々突然再起動したりする。

で、人間の脳みそは、それよりももっと複雑な処理をしているわけで、より多くのエラーを多発しているのではないかと考えてしまう。

感情とか、心とかは、人間の合理的・本能的な生存のための処理から出て来たエラーに過ぎないのではないか、とか。

でもそのようなエラーの言葉こそが人に届いたりする。

感情に訴えたものは、同じエラーを起こしている人にとって、同じくエラーを呼び起こされ、最も心に届くわけだ。

怒り悲しみ妬み喜び、そのような感情は他人に伝染して、その伝播が人が人間にたりえるコミュニティの原点になるのではないか。つまるところ、生存に関する合理性から離れたエラーによって、余計な部分によって、人が人間たりえるのでは、と考えてしまう。

人間はことごとく狂っているのであって、正義も悪も、性善説も性悪説もあったもんじゃない。

多分、そんなものなのだろう。



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